2009年9月24日 Vol120 
提 供  漁船保険中央会

■□■□━━━━━━━━「海外漁業情報」━━━━━━━━■□■□


 「海外漁業情報」では、海外で操業される漁業者の皆さんへ、
 操業上の注意事項や国際会議の結果等をお知らせしています。
 今回から3回にわたって、海外まき網漁業協会 島一雄会長より
 特別寄稿して頂きました原稿を配信いたします。

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  中西部太平洋のかつおまぐろをめぐる最近の動き(1)      

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1 はじめに

 今年は、毎年春から秋にかけて日本周辺に北上してくるかつお
の来遊が異常に少なく、かつお一本釣や引き縄釣あるいはかつお
まき網船は大変な不漁に見舞われています。毎年東沖で操業する
海まき船は例年になく早く東沖の操業を切り上げ南下しています。
このようにわが国周辺に来遊するかつお資源に一大異変が起こっ
ていることは確かです。この異変が異常気象による一過性のもの
ならば、まだいいのですが、近年の北緯二十度以南の赤道水域に
おける無秩序なまき網船の隻数増加による乱獲によるものでない
ことを祈っています。日本はこの南方水域のまき網船の無秩序な
増加に警告を発してきましたが聞き入れられず、今日でもなおま
き網船の増加の勢いは劣えていません。
 中西部太平洋のかつおまぐろは それに依存するわが国漁業者、
加工業者、流通業者は勿論のこと、歴史的に日本人に貴重な食料
を供給してきました。ここでは現在の中西部太平洋のかつおまぐ
ろ資源の状況、漁業の状況がどうなっているのか、どうしてそう
なったのか、私なりにまとめてみました。

2 中西部太平洋はかつおまぐろの豊庫

 中西部太平洋は、世界で最もかつおまぐろが豊富な水域です。
2008年の世界のかつおまぐろの漁獲量は400万トンその半分の200
万トンが中西部太平洋で漁獲されています。
 中西部太平洋にある日本は、日本列島周辺に春から秋にかけて
北上してくるかつおを漁獲してそれをたたきやかつお節に加工し
て長い間利用してきました。かつおは日本人の生活の中に深く入
りこんでおり、単なる食料を超えて季節の風物詩にもなっていま
す。またかつお節は日本人の食生活にとって欠かすことの出来な
い大切な調味料です。江戸時代にはかつお一本釣の裏作として
はえなわを用いてまぐろを漁獲していました。かつお一本釣に
代わってまぐろはえなわがまぐろ漁業の主役に踊り出たのは第二
世界大戦後であり、七つの海を舞台にまぐろの重要さを世界に広
めました。かつお一本釣がはえなわに比べて行動半径が制約され
たのは、生餌の確保が自由にならなかったからです。
 所で、中西部太平洋においては、かつお、きはだ、めばちの主
たる分布域は北緯二十度以南の赤道水域です。わが国周辺に回遊
してくるかつおも赤道水域で生まれ、成長し、産卵します。その
赤道水域に分布するかつおの一部が二才魚になると北へ向けて回
遊を開始します。春から秋にかけてわが国周辺に姿を現すのです。
我々の祖先はそれを一本釣やまき網や引き縄釣等で漁獲して昔か
ら利用してきました。
 この南方漁場へは、第二次世界大戦前に、わが国漁業は進出し
ており、沖縄、鹿児島、宮崎県等の一本釣船は、30トン40トンの
漁船で、南洋委任統治領であったパラオ、ポナペあるいはボルネ
オ(カリマンタン)マレベス(スラウエン島)等南洋諸島に出漁し、
かつおを漁獲し、これをかつお節に陸上工場で加工し日本に持ち
帰っていました。
 第二次世界大戦後、大戦により潰滅的打撃を受けた日本の漁業
の中でいち早く立ち直った漁業はかつおまぐろ漁業であり、かつ
お一本釣は再び南方漁場へ、まぐろはえなわ漁業は世界の海へ
その活動の場を拡げていきました。

3 かつおまぐろまき網漁業の台頭

 戦前わが国においてかつおまぐろを対象とするまき網漁業は技
術的にも規模においても低位にとどまっていました。第二次世界
大戦後食糧増産の大義名分の下に近代的で大型の米式巾着が導入
され、かつおまぐろを漁獲したので、一本釣を初めとする沿岸漁
業と各地で激しい漁場紛争を起こしたため、操業区域を「野島崎
正南の線以東」と厳しく規制されました。また、かつおまぐろを
対象とするまき網は「いわし網」に対して「端物網」とよばれ、
まき網のなかでも外様扱いでした。操業区域が野島崎以東と制限
されてしまったため、かつおを対象としたまき網操業は期間が
ほとんど夏期に制限されて非常に不自由な操業を強いられていま
した。そのような不自由な操業を脱してもっと自由な操業をした
いというのが、かつおまぐろを対象とする北部太平洋で操業する
まき網漁業者の夢でした。まず日魯漁業が岩手の管野漁業と組ん
でアフリカのギニア湾へ、続いて大洋漁業等が東部太平洋と出漁
しましたが、技術の未発達や市場の問題等があり、後発のパワー
ブロックを使用したアメリカ型まき網船との競争に破れ撤退しま
した。大洋漁業の中部兼吉社長は赤道のかつお漁場への執念は強
く、損しても損しても南方へ試験船を送り続けました、捕鯨や北
洋で得た利益を南方のかつお新漁場開発に投じたのです。また、
この時期にまき網に大きな技術革新があったことを忘れてはなり
ません。パワーブロックの発明です。1950年代の後半、米国にお
いてパワーブロックという揚網機が発明されました。これは従来
の労働集約型漁業のまき網漁業にとって画期的なものでした。
乗組員を一気に80人から20人に削減し、まき網漁業の省人化、
省力化、効率化に大きく貢献しました。当時日本からのまぐろ缶
詰や原料の集中豪雨的輸出のため価格が下がって経営が立ち行か
なくなっていたカリフォルニアのクリッパー(一本釣船)にとっ
て正に救世主となりました。クリッパー船が一斉にまき網船に
転換しました。先日も米国のまき網船の船主と話していたら、
あのクリッパーからパワーブロック付まき網船への転換の時が、
正に米国まぐろまき網元年といってよいと云っていました。
 中西部太平洋の赤道水域は、東部太平洋の赤道水域や日本の
東沖漁場に比べ、非常に水温躍層が深く、また透明度が非常に
よいため魚が自由に泳ぎまわるため中々魚を捕捉し難いといわれ
ています。石巻の大慶漁業の尾形金一さんはこの発明されたばか
りのパワーブロックを自費で建造して南方のかつお漁場の開発に
取り組みました。これに続いて各社も新しい形のまき網船を建造
してこの難題に取り組みました。このような努力にもかかわらず、
南方漁場の開発は旨くいきませんでした。

4 海洋水産開発センター日本丸の登場

 このようなまき網漁業者の南方漁業の開発の努力に対して国も
色々な形で支援を行いましたが成功しませんでした。1971年国の
支援の下「海洋水産資源開発センター」が設立され、米国のまぐ
ろまき網船と同船型の漁船日本丸で試験操業を実施、更に各社は
日本丸の相似形で縮小した旧トン数499トン型のまき網船を建造し、
開発センターの試験操業に参加しました。このような努力が実っ
て1973年漸く海外まき網漁業の制度化が行われたのです。前にも
述べたように、中西部太平洋は温度躍層が深く、透明度が良いた
め非常に魚を捕え難い水域です。素群(浮上群ともいってます)
か木付き群が漁獲対象となるのですが、圧倒的に木付き群を対象
とする場合の方が多いのです。そのため木や竹を組み合わせて
集魚装置(人工パヤオと云ったり、一般的には(FADS)と云
います。)を流して漁獲する方法が現在は一般的になっています。
この素群と木付き群はそれに付く魚の構成が違っていて、素群に
は大型のかつおだけあるいは大型のきはだだけが付くのに対し、
木付き群はかつおの他に小型のいいかえれば若いかつおの他に
小型のきはだ、めばちが混ります。小型のきはだ、めばちの量は
少ないのですが、尾数にすると多くなります。そのため木付き群
をとるのはけしからんという主張になり、今年は、8月、9月来年
からは8月、9月、10月、木付き群を対象とする漁業を禁止しよう
ということが中西部太平洋まぐろ類委員会(WCPFC)で決定
されたのです。(つづく)
                                                   
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                 (社)農林放送事業団
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                    漁船保険中央会
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