『銀の匙』は、『鋼の錬金術師』で一躍旋風を巻き起こした荒川弘による、「農業」がテーマの漫画です。舞台は北海道、「外周20km」の敷地面積を誇る巨大な農業高校「大蝦夷農業高等学校(通称エゾノー)」。そこに、中学までは勉強一筋、進学コースまっしぐらだった主人公・八軒勇吾が入学するところから、物語は始まります。都会育ちで、進学コースから落ちこぼれ、特に目的もなく一般入試で酪農科に入学した勇吾は、それまでとあまりに異なる環境に戸惑います。周りは農家の跡継ぎや、明確な夢をもった生徒ばかり。劣等感に苛まれる勇吾ですが、そんな彼を、他でもない「エゾノー」産の採れたての美味しい作物が変えていきます。美味しい野菜や肉、そこに込められた生産者の思い。勇吾は、食 べることで少しずつ成長していきます。
 最大のターニングポイントは、ある日の実習での子豚との出会い。勇吾は、最も生育の遅い子豚を落ちこぼれの自分と重ね合わせ、教師や友人が止めるのも構わず、数ヶ月後に食肉になる運命の子豚に名前をつけてしまいます。そして、悩みます。悩みに悩んだ末、勇吾はとある決断をします。その決断は、彼に「食べることの意味」をより深く考えさせる契機となるのです。
 勇吾の葛藤は、それまで豚や牛を「経済動物」と割り切って考えることが常識となっていた他の生徒にとっても、改めて「ものを食べること」「命をいただくこと」を見つめ直すきっかけになります。「他の動物の命を奪って食べるなんて可哀想」、「美味しくいただくのが家畜に対する礼儀」。どちらも、間違いではありません。そして同時に、どちらが正しいというわけでもないのです。「答えの無い問題」と勇吾は言います。それは、生きるために他の生き物を食べるわたしたち全員にとって「答えの無い問題」です。「答えの無い問題」を考え続けることは、とてもつらい作業です。だから、わたしたちは適当に「答え」を見繕って、解決してしまいます。その方が楽に違いありません。ですが、そう やって出した解答から、食べ物と、そして生産者への感謝に行き着くことは、おそらくないのではないでしょうか。

 農業が漫画の題材に選ばれる機会は、ここ最近増えてきたように思います。「スローライフ」ブームなどがそれを後押ししているという事情もあるでしょう。たとえば、五十嵐大介による『リトル・フォレスト』は、人の住まなくなった里山で晴耕雨読の生活を営む女性の話で、著者の実際の体験を元にした作品ですが、産業としての農業は描かれません。あるいは、『銀の匙』に先んじて話題となった石川雅之の『もやしもん』は農大が舞台ですが、微生物による発酵にテーマを絞っています。『銀の匙』は、三大少年漫画誌のひとつである週刊少年サンデーで連載されていること自体が画期的ではありますが、なによりも、1次産業としての農業の実情と意義を、子どもを含めて誰もが楽しく読める 形で描いている、唯一無二の意欲作です。ギャグを交えて楽しく読めて、その実、「生きること」を問い直す、重いテーマが横たわっている。食の安全が叫ばれる今、大人にこそ読んでもらいたい一作です。

 この7月から、フジテレビ「ノイタミナ」枠にてアニメの放送も始まったので、ぜひコミックと併せてお楽しみください。